久坂部羊著の「冴えた一言」は、漫画家水木しげるの皮肉だが深遠な一言を、膨大な作品の中から紹介しています。
その中で、水木漫画でおなじみの「ねずみ男」が演じる「幸福のセールスマン」が、丸顔の農民・芋吉に見せた紙芝居のお話「ある役人の場合」です。
いかにも堅物そうな少年が、「将来の幸福のため」にガリ勉をして、「昌平校(大学)」に
入って役人になる。(漫画は数十年前の作品で、官僚があこがれの的だった時代です)
友だちが遊び惚けていても、「将来、より多く幸せにならんため」として、彼は貯金をし、
「幸せの基礎」である家を購入する。
次に妻を娶るが、妻も「家具と同様、幸福になるために必要なものである」と言い、結婚そのものを喜んだりはしない。子供もできるが、「これも家具同様ペットとして幸福にかくべからざるものなり」と考える。
いずれのコマでも、役人は自信に満ちあふれた目を吊り上げ、自分ほど正しい者はないという顔をしている。
子供が成長すると、大学にやり、「これも老後を幸せにするために必要なことである」と
自己肯定する。
次のコマでは、白髪頭になった役人が、上等そうな布団にくるまってはいるものの、
「人生五十年の寿命を使い果たして臨終」を迎える。
吊り上がっていた目は情けなく垂れ下がり、口元もうつろにこうつぶやく
「わしは少しも幸福ではなかった」
それに対して、横に付き添った老妻が答える。
「あなたは、幸福の準備だけなさったのヨ」
すると、役人はこう呻く。
「味わうことをわすれていたのか」
漫画には、まだオチがあるのですが、この役人の場合、幸せになるための準備自体が楽しいとか、十分な準備のおかげで残された奥さんと子供が幸せになったのならば、救われるのですが、役人は幸せになるための準備は単なるプロセスであり、奥さんや子供は家具同様だと
思っていたようですから、救いようがありません。
水木さんが漫画を描いた時代と違って、現代は幸せのイメージがつかみにくい時代です。
幸せの解は、百人百様だと思いますが、ひたすら幸せのゴールを目指して普段の生活を我慢して過ごすよりは、幸せになるためのプロセス自体を楽しむ人生を送るほうが、良さそうな気がします。