勢古浩爾さんの「定年バカ」を読みました。
勢古さんの他の定年本は、これまで時々立ち読みしましたが、「俺の定年後は何もしていないぞ。それで何が悪い!」と開き直る論調だったので、いつもパラパラと立ち読みして済ませていました。
珍しく今回購入する気になったのは、相変わらずの開き直りながら、巷の定年本を数十冊読破して、それぞれが提唱する定年後の行動について具体的にいちゃもんをつけているのが面白かったからです。
・定年バカ=定年本の著者は玉石混交。定年後は百人百様なので一般論を偉そうに言われても役に立たない。(お前たちに言われたくないわ・・と言う感じかな?)
⇒たしかに頭で想像してバランスだけを考えて、一般論を押し付けてくる書籍は沢山ありますね。いいところどりをする様にしていますけど。笑
・お金に焦るバカ=ないものは無い。老後の20年は一度に来るわけではなくて、一日ずつ来るのだから、その日を乗り切るしかない。考えても5年後までくらいだろう。ただし、住宅ローンを定年までに完済していないとヤバイ。
⇒定年になってしまえば開き直るしかありませんが、FPとしては、できれば40歳代くらいから、IdeCoなどを使って少しづつ でも準備したほうが良いと思いますね。少なくとも住宅ローンは仕事を辞めるまでに完済を!
・生きがいバカ=何もしないのが、なんで悪いのか?毎日テレビを見て、本を読む生活でいいではないか!スポーツでもそば打ちでも、好きなことをやることと、何もしないで過ごすことは、本人が好きならば等価値だろう。
⇒周囲を見ても、皆さんアルバイトなども含めて「何か」をやっていますね。何もしなくてもやっていける人は、それでいいと思いますよ。芸術家ではないのだから、そんなに簡単に生きがいは見つかりません。
・健康バカ=長生きなどはどうでもいい。自分の健康など心配してもどうしようもない。ただ元気で生きてくれれば・・と思うだけ。
⇒世間が「健康寿命」をやかましく言いだしていますからね。でも健康診断で異常が無くても、数日後に死んだとか、逆に異常だらけでも「一病息災」で元気に長生きする人もいますからね。でもランニングできる身体は維持したいなあ。
・社交バカ=「ひとり」がそんなに寂しいか?「ひとり」がそんなに悪いことか?
社会との繋がりや「地域デビュー」などはバカのすること。
⇒僕は「ひとり」でいることが好きなので、できる範囲で自然な交際を心掛けています。SNSを上手く使えば、あまり寂しさは感じなくて済むとおもいますよ。
・定年不安バカ=定年の準備などできるわけがない。やってきて初めてわかるものだ。入学の社会人になるときも、みんな初めてだったが、そこそこ上手くやってきた。定年だって同じことだ。
⇒定年後にやりたいことが決まっていれば、早くから準備するほうが良いでしょう。なければ自然体でいくしかないでしょうね。
・未練バカ=ここでは内館牧子さんの「終わった人」を題材に、かつての地位への未練や、まだ女性にもてると思っているバカについてです。自我がくすぶり続けているのなら、60年も生きてきたのだから、自分で身を修めなさい(修身)。
⇒「終わった人」は(これも)立ち読みしました。斜め読み後は「残滓」と言う言葉が頭に浮かびました。定年後の人生をそれまでの延長線上で生きるのか?全く新しい人生として生きるのかは、潜在意識も含めての自分の頭の切り替え如何だと思います。
・終活バカ=ここは少しだけ真剣に書いてあります。でも勢古さんが選ぶのは。南伸坊さんの「テキトーでいいっす」と言う言葉です。まあ、死んだ後のことまで自分ではわかりませんからね。笑 だから「棺桶体験」などをする人をバカにしています。勢古さんが「定年生活の達人」と認めているのは、渡辺格さんのこのような言葉です。
「自分の定年後を支えてくれたのは園芸、釣り、犬の3つだ。定年後の人生を満喫した今、これ以上生きていても、今までやったことの繰り返しになることがわかっているから、いつ死んでも悔いはない」
⇒「終活」はまだやっていません。両親を見送って思ったのは、誰かの心の中に残っている限りは、人は生きているのかな?自分も、できるだけ他の人に役立つことをして、いい記憶として残りたいなあということでした。
この本の最終章は「人生を全うするだけ」です。
ここでは30年前に書かれた吉武輝子さんの「夫と妻の定年人生学」を引き合いに出して、三菱銀行名古屋支店長を55歳で定年に退職した吉武さんの父親が、伊奈製陶の重役に天下りしたが、(盆暮の付け届けや年賀状が激減したことなどから?)自分の意味と生きる意味を見失い、うつ病になって一年後に自殺したことを書いています。
吉武さんは、この本で「日本の夫族は、大方は、本来の人格を職業的人格に乗っ取られてしまっている」と嘆いておられるそうです。
簡単に言えば、管理職になると「課長」「部長」という役職名だけで呼ばれるのが、定年になると「○○さん」になるが、そこで退職後に権威や支配的地位を失った夫族は、せめて妻や家族を支配しようとして「地獄」を見る・・というホラーのような話ですね。笑
現代では吉武さんの父親のような人はいないと思いますが、多少なりとも傾向は残っていると感じます。
いまでも散在する、企業のOBを中心とした会合や組織は、現役を終わっても精神的に「上下関係」を維持しようとする足掻きみたいなものですからね。笑 (後継者難で、いずれもかなり高齢化しているようですが)
定年後に奥さんに愛想をつかされるご主人の話も時折聞きますね。
最後に勢古さんは「自分にとっての意味」の発見について書いています。
「元々、人生は無意味なものである。そこに人間は無数の意味を作り出し、それをみんなで承認しあうことで世界は成り立っている」
例えば「100メートルを10秒以下で走る」ことに何の意味があるのか?
「人類最速」「世界一」「人間の可能性」は確かに大きな意味を持つし、100メートル競走の決勝は面白いが、もしも100メートルを10秒以下で走れる選手でも、自分にとっての走る意味を見失えば、その人にとって100メートルを何秒で走ろうとも無関係になります。
僕も走っていますが、僕がフルマラソンを4時間以内で走ろうが、5時間かかろうが、他の人には何の意味もありません。僕にとっては、設定した目標を達成した満足感か、達成できなかった悔しさが残りますが、それを次回へのモチベーションとして利用しているだけの話です。
でも、ランニングに限らず、我々は楽器やバイクのような、かつてやりたかったことや、やって見たかったことに挑戦することで、定年後の自由(とされる)時間の中に、自分だけの意味を見つけようとして足掻いているとも言えます。
それが「何もしないこと」であっても、本人が好きで、何もしないことに意味を見出せるならばそれでいいのだと思います。
でもFPとしては、お金だけはあると無しが明確なので、
少なくとも住宅ローンは仕事を辞めるまでに完済しておくことを強くお勧めします。笑