• 定年男子のランとマネー

<ポイント5>

さていよいよ奴隷問題です。

南北戦争後に、奴隷は解放されたが、奴隷の経済的状況は変わりませんでした。

北部は奴隷を解放したものの、特に奴隷よりの労務や経済の政策をとったわけでもなかったようです。

南北戦争後、10年超に及ぶ北部による南部占領終了(1877年)が終わったてから

黒人たちは再び白人の支配下に置かれました。

ちなみに名高い黒人排斥集団であるKKKは1866年に結成されています。

僕の同僚がテネシー州の田舎に農場を持っていて、家族で遊びに行ったときに、

「この近くにKKKの本部があった」という話を最近のことのように聞かせてくれて驚きました。

KKKなどというものは、とっくの昔の歴史の遺物だと思っていましたからね。

また、オフィスでは黒人のアナリストがいて、彼女が退職するときに、幼いころに自分や友達が受けた人種差別について語ってくれました。彼女は北部出身でフィギュアスケーターになることが夢で、一生懸命練習したけど・・・のような話でしたね。

込み入ってくると僕の英語力では理解がむつかしくなります(苦笑)

南北戦争後は北部イコール(共和党)に対抗して、南部は結束して民主党支持になりました。

憎き北部、憎き共和党というわけですね。

南部の経済的な荒廃は復興がなかなか進まず低空飛行を続けました。

イメージからして「遅れた地域」だったのでしょうね。

アメリカ合衆国内の南北問題です。

南北戦争から50年くらいたった、20世紀初頭の第一次世界大戦後の大恐慌時にはさらに

大きな打撃を受けることになりました。

そこへ登場して南部(アメリカ)を救ったのが、フランクリン・ルーズベルト大統領(民主党)でした。

彼は、農業調整法により、綿花・たばこ等の穀物価格引き上げ南部経済のテコ入れを行いました。

またテネシー川流域開発公社により、大規模な開発を行い南部の経済回復に大いに尽力し、かつ民主党の支持基盤拡大に努めました。

南部経済にようやく回復の兆しが見え始めたのです。

それから20年が経過して勃発した第二次世界大戦では、米国人兵士が世界に転戦しました。

なかでも、黒人兵士はヨーロッパなど自国外での自分たちへの扱いが、自国内での差別的扱いとは明らかに異なることに気が付き、徐々に人種差別への意識が覚醒していきました。

第二次世界大戦での、ある黒人伍長の言葉です

「私は陸軍で4年間にわたりオランダ人やフランス人を開放する任務にあたった。でも、

もし祖国に帰ったならば、ドイツ上がりのアラバマ人に蹴飛ばされる目に合うかと思うと戻りたくない」

さらに戦争中に黒人が南部から北部へ大きく移動を始めました。 

これは戦争でまず白人兵士が戦地に赴いた後、彼らの不在時に黒人たちが北部へ移動し、そこで新たな差別に遭遇したということです。

つまり、北部でも南部でも黒人たちは差別されていて、それを当然と感じていた黒人たちの意識がようやく目覚めてきたのです。

第二次世界大戦が終了し、1950年代~60年代には人種差別に反対する黒人や白人の指導者たちが次々と迫害され、ついには暗殺されました。

マーチン・ルーサー・キング牧師(暗殺)

ジョン・F・ケネディ大統領(暗殺)

これらを契機にして黒人の意識が大きく変わり、人種差別撤廃を要求する公民権運動へと繋がっていったわけです。

ところが、公民権運動を推進していたはずの民主党内に意見の対立が始まりました。

民主党を熱烈に支持していたソリッド・サウス(伝統的に民主党支持の南部諸州)のなかに

黒人の人権拡張に反対する勢力が強くなって、黒人に公民権を認める法案が次々に阻止されました。

その結果、とうとう1968年に民主党は分裂してしまいます。

その間のソリッド・サウスの弱体化を突いて共和党が南部に進出して、北部の共和党対南部の民主党という単純な図式はここで大きく変化しました。

それでも南部は地道に政治的・経済的な力をつけていきました。

1976年 民主党のジミー・カーターが大統領に当選!

南部のピーナッツ農家出身の政治家が、現職のフォード大統領に勝利という結果を残しました。

100年以上前の南北戦争で敗れた南部が、ようやく政治的に復権しました。

それとともに、(環境の整備が進んだからでしょうか)南部のイメージが向上したようです。

大西洋・カリブ海から西部大平原を経て南カリフォルニアに広がる帯状で太陽が降り注ぐ「サンベルト・サウス」では素晴らしい生活を享受できるというイメージです。

このイメージ向上とともに南部の人口が急激に増加し、経済もさらに発展することになりました。


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