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アメリカ合衆国議会について南部と北部の勢力範囲を纏めてみます。
下院の議席
これは人口に応じて配分しています。
上院の議席
この議席数は各州で平等になっています。
下院の議席数の問題は人口の数え方です
奴隷を差別しているが、議席数を確保したい人たちは、奴隷の人数の5分の3を人口として勘定することにしました。
その結果、下院では南部勢力が拡大しました。
これにより南北戦争前は大統領職をヴァージニア(南部)勢力が独占していました。
ところが、
1840年~60年に、北部へアイルランドとドイツから約400万人の移民が大量にに流入し下院での北部の勢力増強と南部の後退が顕著になってきました。
下院での北部の勢力に南部が逆転されて不利になり、
南部にとって望ましくない法案はたとえ多数決で下院を通過しても、上院で拒否する戦略を取り出しました。
議席の過半数を得て議会での法案成立を有利にしたい北部と南部は
人口が増えて昇格してくる新しい州にたいして自由州(北部)と奴隷州(南部)の激しい争奪戦を行いました。
言ってみれば、現在の大統領選挙で共和党と民主党が激しく各州の選挙人を取り合っている姿と重なりますね。
1860年大統領選挙は結党直後の共和党にとって初めての大統領選挙でしたが、
共和党の大統領候補者リンカーンが北部・中部で勝利しました。
リンカーンは南部では全敗したのですが、
議席数において南部は大統領職・上院・下院での支配権を失うことになりました。
ここでとうとう南北戦争が勃発しました。(1861年)
選挙結果に納得がいかない南部諸州は、ついに連邦政府を脱退し、南部連合を結成したのです。
南部連合のメンバーは下記です。
アラバマ・・フロリダ・ジョージア・ルイジアナ・ミシシッピ・
ノースカロライナ・サウスカロライナ・テネシー・テキサス・ヴァージニア
彼らにとって南北戦争は、まさに「自分たちの土地を守る戦い」だったのです。
しかし現実には、戦力に勝る北部が南部に攻め込み
戦争はほとんど南部で行われました。
ネットで調べると、南北戦争後に言われた言葉として
The United States of America are
からThe United States of America isに変わった。
(主語が単数になって)戦争後にようやく国家として統一されたというフレーズがありました。
本当に、動詞が複数から単数に変わったかは分かりませんが、これでようやくアメリカ合衆国は一つの国になったわけです。
(南部びいきから言わせると、北部の言いなりに動く国になった・・ですが 苦笑)
戦場がほとんど南部で行われたことに加え、北部の戦争による破壊がかなり徹底していたこともあって南部は戦後かなり荒廃し、結局それを北部資本が再建することになりました。
(北部資本にとってはチャンスですね)
しかし、容赦ない北部の仕打ちに対して、南部の人々の北部への恨みが残ることになりました。
恨みの一つは、北部の政治・教育・資本等を南部に押し付けたことで
伝統ある南部文化を軽視し、北部の優位性を誇示することで南部の誇りを踏みにじったことです。
アメリカ人が、現代でも時に極端に理想主義的なのは、北部に入植したピューリタンやクエーカーの影響が強いのかなとも思います。(個人的な想像です 笑)
そして、北部主導の復興が続いた結果、南部経済が南北戦争前の水準に戻るのに数十年も要することになりました。
その間の南部人は北部人に対する深い怒りを胸中に抱えたままだったのです。
このあたりの感情が、いつくらいまで維持されていたのかは、アメリカ人ではない僕にはわかりませんが、1990年代初めに初めてジョージア州アトランタに赴任した時に、アトランタ支店の同僚がニューヨークから来た人を「ヤンキー」と呼び、ハーバード法科大学院出身のニューヨークの弁護士にひどく反感を持っていたと感じた記憶があります。
(あくまで個人的感想です 笑)