50代後半になったときに、働くことの他に、定年退職後に何をするかを考えだしました。
仕事は報酬を伴うものですから、世の中の需要がないと出来ません。
つまり、体力に加えて、よほどの才能か技能がないと、本当の意味での生涯現役は難しいものです。
では、仕事以外に最後まで続けられることは何だろうか?
知恵を絞った末に考え付いたのが、自分の能力を分解して好きなことを集中的にやってみるということでした。
人間の能力を分解すると
「考える、食べる、走る、書く、寝る、話す、見る、嗅ぐ、聴く、噛む、飲む、読む・・・」
と幾つも出てきますが、このうちで「書く」と「走る」を選びました。
昔学校で習った「晴耕雨読」を思い出して、晴れた日は外で「走る」、
雨の日は家の中で「書く」をやってみることにしました。
手足を使うので、もしかしたら「認知症予防」になるかなとも思いましたね。(笑)
「走る」については、このブログで何度も書いているので、今回は「書く」について書いてみたいと思います。
先日、小説「DNAシーケンサ―」を上梓しました。(8月発売です)
2年以上の月日を掛けて書いたのですが、書いていて自分の表現技術の拙さに呆然とする日が続きました。
あるシーンを書くと、同じ表現が何度も出てきてしつこくなります。
でもその表現に代わる、同じ語感を持つ言葉を思いつきません。
基本的に、同じシーンで同じ表現は使わないようにしているので、
そのシーンに会うような他の言葉を探して考え込み、また本棚から小説や辞書を引っ張り出してきて適当な言葉を探していて、気が付くと一日が過ぎることもありました。
そんな風にして書いていて、ふと思い出したのが父の姿でした。
父は多趣味で、詩吟、書道、油絵などの稽古をよくやっていました。
特に書道が好きなようで、時間があると筆に墨を含ませて文字の稽古をしていました。
「これだ!」
考え付いたのが、「真似」です。
書道のように、お手本になる作家の文章を書き写して、小説の構成、文章表現などを真似してみたらどうだろうか?
学生の頃から考えてみると、日本の作家では、山本周五郎、山岡荘八、司馬遼太郎、新田次郎、城山三郎、曽野綾子、田辺聖子、就職してからは、池波正太郎、宮城谷昌光、隆慶一郎、藤堂志津子、浅田次郎、大沢在昌とつぎつぎ名前が浮かんできましたが、ストーリーではなくて文章で読ませる作家となるとなかなか思いつきません。(もちろん各作家とも文章力は人後におちませんが)
考えた挙句に、手元にあった文庫本の作家である藤沢周平の文章がきめ細かくて、計算されているように思ったので、「風の果て」という小説の筆写を始めました。
この小説は、多分原稿用紙1000枚を越える長編で、1日1ページの筆写ではほとんど進まないのですが、物語のほんの一部分を書き写してみただけでも、藤沢周平の分析力、構成力そして文章力が迫力を持って立ちはだかるという印象ですね。
「全く、自信を喪失するために書き写しているのかねえ」
と思うくらいに、正真正銘のプロの作家と自分の力量格差に唖然となってしまいます。
でも、昔から「筆写に勝る読書無し」(小説で読んだことがあります 笑)というように、遅々として進みませんが、書いてあることや書きたいであろうことはよく伝わってきます。
というよりも、このスピードですから書いていてよく考えます。
「どう布石を打ったら、こういう展開になるのか?」
「この場面を現わすにはこういう書き方もあるのか」
亡くなった父が飽きる様子もなく、同じ手本を繰り返し書き写していたのも、もしかしたら同じ様なことを感じていたのかもしれませんね。
父のおかげで、「書く」ことから「書き写して読む」という新しい楽しみを見つけたのかもしれません。