「メメントモリ」はラテン語で
「自分がいつかは死ぬことを忘れるな」という意味で
「死を記憶せよ」などと訳されることがあります。
父母を見送ってから漠然と「次は自分の番だな」と思っていますが、死についてどのように考えればよいのかは難しい問題です。
たまたまですが、作家で医師の久坂部羊さんが今年の3月22日に「医師だった父の上手な平穏死」と題して講演された記録を読む機会がありましたので、心に残ったポイントをいくつかご紹介します。
(高齢者の会合での講演なので若干ショッキングな内容ですが)
久坂部さんは医師になりたての頃は、患者さんが亡くなるとショックでしたが、よく見てみると亡くなってから苦しそうにしている人はいないそうです。
どんなに苦しんで死んでも、その死に顔は安らかで
「死はそれほど悪くない」と思えたそうです。
例えば、ガンという病気は見えているところだけ切っても細胞レベルで広がっていることによる再発の危険性があります。したがって広く取ったほうが再発の危険性が減るのですが、往々にして外科医は、再発を心配するあまり
大きく取りすぎて患者を死なせてしまうことがあるそうです。
久坂部さんのお父さんは30代で糖尿病になります。食事療法をしても効果が上がらないので止めてしまいます。理由は
「食べたいいものが食べられないストレスが血糖値をあげている」というものでした。更に
「糖尿病が気になるのは検査するからだ」と検査もしない、気にしないという生き方を選択します。
医者の医療嫌いですね。普通の人には真似できません。
久坂部さんはお父さんの病気の悪化に対してこう考えます。
「心配だから病院に行け」というのは息子の心配を押し付けるだけだ。
親が病院に行きたければ行けばよいし、行きたくなければ無理強いすべきではないと考えたそうです。凄いお医者さんですね。
久坂部さんのお父さんは医療否定派でしたが、否定されていたのは、治らない病気を治そうとすることでした。多くの患者さんは治らなくても治してほしいと医者に言ってきます。医者としても「治りません」と言いたいところですが、それを言うと「患者を見捨てた」と言われるので、治らないとは言わないそうです。
お医者さんにこんなことを言われると、確かに他のお医者さんのところに行きますね。
久坂部さんのお父さんは、糖尿病からくる様々な症状が出てきます。白内障や指の壊死などです。壊死は放置すると壊死組織の毒素が全身に回るので早急に患部を切断する必要があります。ところが久坂部さんのお父さんはインスリン投与による治療を続けます。最後は壊死が黒い瘡蓋になって取れたそうです。
「ストレスが無ければこうなる。医者は病気が悪くなった人ばかり研究するけれど、自分のように放置して良くなった者を研究したほうが良い。自然治癒のメカニズムを研究して生かすことができれば、医者はいらなくなる。」
極論ですね。でも、そうかもしれないなとも思います。
余り死ぬことを考えていない人にとって、最も人気があるのはポックリ死です。
でもこれは大変です。心筋梗塞や脳梗塞などで死ぬときは、発作が起こってから死ぬときに5~10分の時間がかかります。
それまですべきだったことが走馬灯のように頭をめぐる中で苦しみながら死ぬのがポックリ死です。
「眠るように死ぬ」のは嘘だそうです。100歳くらいでは本当に朝起きたら死んでいたという人もいますが、普通はジワジワ死んでいきます。
「ピンピンコロリ」が理想とされますが、ピンピンしていた人はダラダラ死ぬそうです。コロリと死ねる人は不摂生をしていた人らしいです。
それはガン死です。
80歳を越えると「いつまでも死ねなかったらどうしよう」という恐怖が襲うそうです。ほとんどの人は何の楽しみもなく、人に迷惑をかけるばかりになっても、まだ死ぬことができない状態にあります。
ガンの良いところは、直前まで意識がはっきりしていることと、治療をしなければ2~3年ほど割と元気に暮らせることです。それだけの年数があれば、行きたいところへ行き、お礼すべき人にお礼をすることができて、仲直りをしたい相手にも言いやすくなります。これが医師にとってガンが死に方の人気第一位になる理由です。
死にたくない、苦しみたくない、ああしたい、こうしたいという人は苦しみます。なるようになると思っている人は苦しみません。
認知症になるのを怖がっているのは認知症になる前の人で、認知症になりきると楽だそうです。
久坂部さんのお父さんは、最後は誤嚥性肺炎で一晩の発熱ののち昏睡状態になりました。ご自宅での最後です。
「死に対して医療は無力です。死にかけて病院に行っても良いことはありません。」これが久坂部さんの結びの言葉です。
実際に久坂部さんの講演を聴いたわけではないので、僕の文章が講演のニュアンスをどこまで伝えているかはわかりませんが、「いかに生きるか」と「いかに死ぬか」が双生児の関係にあるのであれば、死に方から逆算して生き方を考えてもよいような気がします。