ゴンザレスが首相になってテロ対策で行ったことは、隣国フランスへの協力要請である。
バスク地方はスペインの4地区とフランスの3地区にまたがっており、スペインでテロを実行したグループが国境を越えてフランスに入国してしまうと逮捕できなかった。
フランスはETAの活動を独裁政治からの独立運動(レジスタンス)と捉えてスペイン政府に極めて非協力的であった。
これを社会労働党政権がフランスに強力に働きかけた。カルロスも独自の外交ルートを使ってフランスの態度を変更させた。
さらに、83年末からETAテロリストやシンパを暗殺する右翼テログループGALが暗躍するようになった。GALは現職警官・殺し屋・ギャングらによって構成されたが、動かす資金の巨大さや情報収集能力からみて国家組織の関与が疑われた。
1991年9月のGAL首謀者裁判では国家の関与についての言及は一切なかったが、GALの活動に対してETA-mは表にあるように無差別テロを持って応えた。
一般市民を巻き込んだETAの活動は徐々に社会の支持を失い、活動家の減少とともに着実に弱体の方向に向かっている。