それではここで23F事件終結から今日までの歩みを簡単に振り返ってみる。
23F事件の直接の原因になったと思われるETAのテロの犠牲になった人数の変遷は下記の通りである[1]。
テロの犠牲となった人数は、1978年から80年にかけて急増している。それ以降は比較的安定している。
筆者自身の経験で言えば、82年から87年の在住で身近に2回のテロ経験がある。
一度は自宅から1-2キロ離れたところで自動車爆弾が爆発してアパート12階にある自宅の窓ガラスが振動して割れそうになった。
もう一度は、オフィスの近くの国防省でセラ大臣の執務室に大通りの向こうからロケット弾が撃ち込まれた。幸い大臣は席を外していて無事だったが、オフィスの大きな窓ガラスが振動で落ちそうになった。
他にも旧市街を車で走っていて30分前に高官がテロで殺された話を聞いた覚えがある。いずれも犯人は支援組織の助けで逃亡した。
23F事件の後でもテロは恐怖だった。78年から80年のテロが急増した時期の治安警察や軍人たちの恐怖とテロリストへの憤激は想像に難くない。
年 | 治安警察 | 国家警察 | 軍人 | 民間人 | 公人 | 計 | |
1978
1979 1980 1981 1982 1983 1984 1985 1986 1987 1988 1989 1990 1991 1992 計 |
20
24 32 6 12 9 7 9 22 11 4 1 3 10 4 174 |
17
14 14 6 10 10 7 9 4 4 5 7 10 8 4 129 |
5
11 11 9 5 2 6 6 7 1 1 4 3 3 8 82 |
22
30 56 11 14 22 16 13 7 38 7 5 10 21 6 278 |
11
7 5 0 2 1 5 3 1 0 1 2 1 5 0 44 |
75
86 110 32 43 44 41 40 41 54 18 19 27 47 22 699 |
|
戸門によればETAはフランコ独裁政治の抑圧に対抗する手段として大きくなった。スペイン国民は民主化が進めばテロは解消か緩和に進むと考えていたが現実にはテロが急増した。
ETAは1974年にETA-pm(政治・武力闘争派)とETA-m(武力闘争派)に分裂した。
ETA-pmは政党を作りこれが1977年に合法化されるとテロ活動を放棄したがETA-mは武力闘争を強化した。
1978年に新憲法が制定され、1979年にバスク地方自治憲章が制定されると1980年にはバスク地方に独自の議会と行政府が成立した。これを不十分とするETA-mは過激なテロ活動を続けた。
ETA-mへの市民からの支援も低下し、組織の少数化・弱体化に焦りを覚えた反動として1978-80年の犠牲者が急増したのである[2]。
[1] 戸門一衛 「スペインの実験」1994年 朝日選書 p213
[2] 戸門一衛 同上 pp.211-216