この論文を作成した時に学んだことを検証したくて2012年5月にスペインを訪れました。
論文概要のあとに、その時の旅行記を書いていきます。
以下論文概要です。
1981年2月23日午後6時、スペインの首都マドリードでクーデターが勃発した。
アントニオ・テヘロ中佐に率いられた治安警備隊186人が突如国会議事堂に乱入し占拠した。
彼らの狙いは国会議員全員を人質にすること。その日は直前に辞任したスアレス首相に代わる新首相を選出するため、すべての国会議員は議場に参集していた。
テヘロたちは議場に乱入し、天井に向けて拳銃を乱射して威嚇した。国会議員たちはあっけなく拘束された。
不服従の意思を示したのがわずかに三名。メダージョ副首相兼国防大臣、カリージョ共産党書記長、そしてスアレス首相だ。
偶然にも国営テレビが後継首班選挙の模様を全国へ放映中だった。史上初めてクーデターが実況中継された瞬間である。
同時にマドリードから400キロ離れたバレンシア市で、ミランス・デル・ボッシュ将軍が市中に戦車部隊を投入し戒厳令を発布した。
1982年4月に仕事でマドリードに着任したとき、この国の「光と影」に驚いた。
「光」の部分は、未来への活力。若い世代が元気だった。82年10月に政権を握ることになる40歳のゴンザレス首相が大人気だった。
「影」の部分は、マドリード市中のいたるところに配備された治安警備隊。常に自動小銃を装備した軍隊である。
「光と影」の謎を30年間持ち続けて、幸運にも放送大学大学院で研究の機会を得ることになった。
研究を始めたころ(2011年)のスペインは、リーマンショック後に不動産バブルがはじけて得意の絶頂から奈落の底へ転げ落ちている最中だった。
スペインは400年前にも同じ局面に遭遇している。無敵艦隊がイギリスに敗れて国運が傾いたのだ。
スペインが再び輝いたのは、1986年のEU(当時はEC)加盟以降である。自国の歴史の転換点であるEU加盟を短期間に実現させた原因は何かを考察するのが研究の目的であった。
フランコ総統の死去からEU加盟までの約10年間を「民主化移行期」と呼ぶ。
この期間の最大事件は、冒頭に挙げたクーデター事件(23F事件)である。クーデターは結果的に失敗したが、スペイン国民に忘れがたい記憶を残した。
30年経過した2011年2月23日には、生き残った元国会議員とカルロス国王が集まって記念式典を開いた。メディアも大々的に報道した。
しかしこの事件は謎に包まれている。
この時期を研究した本邦のスペイン研究書のほぼ全部に触れられているが、事件の意義や影響についての説明は殆ど無い。
これはおそらくスペイン最高裁判所が、事件後50年にわたり実質的に本件の法律的な議論を禁じたことが影響している。事件の資料等の解禁は2031年まで待たねばならない。
本研究では、先行研究とは異なり人物を中心に論じることで、この事件の意義と影響について考察することとした。論じる対象として選んだ人物は、カルロス国王とスアレス首相である。
研究の対象とした「民主化移行期」は、スペインにとっても世界にとっても激動の時代だった。
1973年と79年の二度にわたるオイルショックと世界的な経済変動。1974年に起こった隣国ポルトガルの軍事クーデター(カーネーション革命)。1975年のフランコの死。
政治経済の激動期に独裁的なリーダーを失ったスペインは大きく迷走を始めた。独裁国家から民主国家への道は、あまりに遠く険しかった。
スペインの民主化は、カルロス国王の意思をスアレス首相が具現することで推進された。
カルロス国王は、1931年の共和政政府樹立で国を追われたアルフォンソ13世の孫である。
共和政政府を打倒して内戦の覇者となったフランコ将軍が、紆余曲折ののち流浪の王の孫を軍事独裁政権の後継者としたのである。(人物関係図ご参照)
<人物関係図>
アルフォンソ13世(祖父)
フランコ総統 ドン・ファン(父・王位継者)
<軍事独裁主義> <民主主義>
後継者 息子
カルロス国王
軍事教官・侍従長
アルマダ少将(黒幕) スアレス首相
ミランス中将(実行犯) メダージョ副首相(軍人)
テヘロ中佐(実行犯)
国王カルロスはスペインの将来の発展と、王家の安泰のために、立憲議会制国家建設を企図した。そのためにフランコの郎党(ブンカーと呼ばれる)と戦う人間を物色した。
白羽の矢は野心家スアレスに立った。スアレスは、フランコ時代に唯一許可された政治運動である「国民運動」担当大臣を務めていた。彼はフランコ信奉者と見られていた自身の経歴を隠れ蓑に使って、急激な民主化を進めた。
新憲法制定・政党の合法化・民主的総選挙の施行など、どれも軍事独裁で育ったブンカーたちには信じがたい暴挙だった。
中でもフランコの不倶戴天の敵だった共産党の合法化を独断で強行したことはブンカーたちの憤激を買った。
更にフランコが武力で抑圧してきたカタロニア州やバスク地方に大幅な地方自治を認めたことが、かえって地方の独立運動を刺激した。バスク独立運動派が起こしたテロは、フランコ配下だった軍人を主な標的にして多数を殺害した。
共産党合法化への怒りとテロへの恐怖が軍人たちを冒頭のクーデターに決起させた。軍人たちの標的はスアレスであり、旗印は反民主化だった。
ところが、不思議なことに反乱軍人たちはカルロス国王の支援を信じて決起したのである。
実際には民主化の強力な推進者である国王が、反民主化を掲げる軍人たちには、絶対の後ろ盾と信じられていた。
これは政治的巧者であるカルロス国王が、表の顔と裏の顔という二面性を使い分けていたためである。
本研究では彼の二面性を、個人の生立ち・思想・性格だけではなく、スペイン王家の悪しき歴史を打破するものとして捉えた。
前述のように、数百年にわたる長期の没落の間、スペインの政治は各時代の国王が宮廷貴族または軍人上がりの政治家を重用し、国政を丸投げにして、行き詰った挙句、クーデターが起こることの繰り返しであった。
最終的にカルロスの祖父は国を追われた。
父は王位継承権を保持したが国に還れなかった。
カルロスの悲願は、王家と国家を一致させること。そしてそれを安定的に継続させることであった。
カルロスは王権を制約することと引き換えに、立憲議会制により、国政を民主的に選ばれた議会と内閣に任せて王家を安定させることを望んだのである。
カルロスはフランコの後継者で軍の最高司令官という表の顔と、フランコ体制を破壊して民主化を推進すると言う裏の顔を、スアレスを利用して使い分けた。
スアレスが採った民主化推進策は極めて過激だった。
たとえば政治改革法案の了承を得るため、幹部軍人たちを官邸に招待し、交換条件として共産党の合法化は絶対にないことを明言しながら、わずか半年後に抜き打ち的に合法化してしまった。
イースター休暇中にいきなりテレビ放送で共産党の合法化を国民に知らせる方法を採ったのである。
1980年終わりから1981年初めのスペインの政治情勢は、極めて緊迫していた。
度重なるテロの恐怖とスアレスのテロへの穏健な対応への怒りが軍人たちの緊張度を極限にまで押し上げていた。
異常ともいえる状況を解決に導けるリーダーとして注目されたのが、23F事件の首謀者アルマダ将軍である。アルマダは若き日のカルロスの軍事教官であり、その後王家の侍従長を17年務めた、フランコ配下の軍人・貴族である。
メディアは国王の信頼厚く、軍部を纏められる人物としてアルマダをスアレスに替わる首相候補筆頭に上げた。
テヘロやミランスを使った武力行使を背景に、アルマダがカルロスに首班指名を迫った。
これに対し、カルロスは民主化推進という自身の裏の顔を、テレビでの演説を通じて国民に曝すことにより明確に拒否したことがクーデター事件の顛末である。
国王が貴族・軍人に依存するというスペイン王家の悪しき伝統を断ち切った瞬間であった。
23F事件によって、国民がカルロス国王の真意を知ることとなった。裁判を通じて軍人たちの醜い誹謗中傷が公となった。
フランコ旧体制を支えた権威は失墜し、崩壊した。81年にカルボ・ソテロ政権がNATO加盟を決定。翌1982年10月の総選挙では、清新なイメージのゴンザレス書記長率いる社会労働党政権が過半数の得票を得て大勝した。
ゴンザレス首相は10年以上にわたる長期安定政権を維持し、結果的にスペイン王家も安定した。EU加盟はこの政権で成し遂げられた。国民にショックを与え、民主主義を選択させ、社会労働党にEU加盟を実現させた原動力が23F事件である。